goryoukaku04.jpg 函館五稜郭

2007年05月29日

凧揚げの思い出

小学1年生の途中まで亀田本町にいた。1日として、外を走り回らない日はなかったように思う。

毎日の遊びには流行というものがあって、コマが流行ると、連日そればかりやる。そのうちビー球遊びが流行り始めるとまたそれが主役になる。そして、パッチ(メンコ)が流行ると、またそれを一生懸命に集める。

そんな日々を過ごしていたある日、近所の広場でぼくが見たのは、大空に浮かぶ凧であった。ものすごい空高くに、あちらでもこちらでも凧が舞っているのである。

それで家に帰って母に、凧がほしいと言った。すると母は、うちにはそんなにおカネがないんだから、辛抱しなければダメなんだよと言うのである。そうかと思って、ぼくは素直に諦めた。そして、また遊びに出かけた。凧のことを忘れて遊んでいると、姉だったか妹だったか、近所の友達だったのか忘れたが、やってきた。

お母さんが凧を買ってくれると言っているから来なさい」と言う。なぜ急に買ってくれることになったのかわからなかったが、喜び勇んで家に行き、おカネをもらって、20円、30円ぐらいの一番安い凧を買った。

どうやって飛ばすのか、さっぱりわからない。なんか、尻尾が必要らしいというので、みようみまねで新聞紙で尻尾をつくって貼り付けてみたが、どうも飛びそうな感じがしなかった。

ままよ、とにかく広場に行ってみよう。急いで空き地に行き、懸命に揚げようとしたが、周りのお兄さん、お姉さんのようにはなかなか揚げることはできなかった。もう夢中で凧糸を持って走りまわった。

そんなことがあって後日、母がお客さんにこんな話をしていたのを聞いた。

「凧なんかがまんしなさいと言ったんですよ。でも、その後で買物に行ったら、子供たちがみんな広場に集まって、いっぱい凧が揚がっているんですよ。ああ、だから欲しかったのかと、かわいそうになってね、それで買ってあげるからと呼びに行かせたんですよ。そうしたら、飛ぶように走って帰って来てね」

自分にもこんな純情で素直な、いい子供の時期があったのかと、今になってみれば驚きである。
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2007年04月18日

ピカピカのデパート

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写真・ウィキペディアから)


昭和40年代、函館で一番の繁華街は函館駅前周辺だった。そして、一番華やかなのはデパートで、中でも函館でナンバーワンのデパートといえば棒二森屋であった。そこに行くのは年に一回か二回、正月にきれいな服を着て、お年玉を握り締めて、自動車の玩具を買いに行ったものだ。

棒二森屋のマークは『に』のような形で、それでボーニと読むのである。その向かいにWAKOがあり、少し離れて「さいか」があった。さいかはボーニに比べれば庶民的な、田舎のデパートという感じだった。風の便りで聞いたところではもうないらしい。当時はデパートそのものが都会を象徴するステータスで、ボーニは本当にどこもかしこもピカピカ光っているようだった。

その後はデパート・百貨店という業態事態が時代に合わなくなり、ダイエーに買収されたりしたが、ダイエー自体がまたおかしくなり、時代の流れを感じずにはいられない。

と、ここまで書いたところで「棒二森屋」を検索してみると、しっかりウィキペディアhttp://tinyurl.com/27ud8gに載っていた。

これを書いたのは函館市民に違いない。現在「中合 棒二森屋店」になっているとは、全然知らなかった。

とはいっても、函館駅前に聳え立つボーニは今でも函館市民にとって、東京駅前にある丸ビルのように、象徴でありステータスだと思う。
タグ:棒二森屋
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2007年04月11日

セキヒツの記憶

石筆(セキヒツ)というのは今でもあるんだろうか。ぼくが子供の頃はものすごく身近なものだった。白い石で表面がつるつるしている。それで地面に線を書いて遊ぶのだ。地面はコンクリートではなく、踏み固められたこげ茶の土である。毎日、その土の道路で走り回って暗くなるまで遊んだ。すごく心地よい。「さあて、今度は何をして遊ぼうか」というとき、セキヒツは活躍する。

○を1つ書いて、○を2つ書いて、また1つ書いて、そんなのをつなげて。1つのところでケンケンをして、2つのところは両足でパーと。そんな遊びもあったし、もっと複雑な遊びもあった。セキヒツは駄菓子屋で5円か10円で売っていた。幼稚園児には貴重品である。

あるとき、そのセキヒツが山のようにあると聞き、友達と取りに行くことになった。港町の方にあるという。港町というのは函館本線の向こう側にある普段行ったことがない町だった。五稜郭駅の向こう側に行くのは、異国の地へ行くような大冒険だった。

暑い日だった。線路にかかる歩道橋がものすごく長大なのに驚き、感動した。そして渡り切ると、そこは亀田本町とはまったく別の世界だった。工場が多く、コールタールの匂いが染み付いたような町だった。本当に山のようにセキヒツがあるのだろうか。期待に胸を膨らませ、めずらしい町を見回しながら歩いた。

すると、本当にセキヒツが山のようにあったのだ。工場の近くの空き地に無造作に放置された白い山があった。それが全部セキヒツだった。夢中で拾い集め、一番いいやつを選び、ポケットに詰められるだけ詰めて帰った。5歳、あるいは6歳。大冒険をして宝物を持ち帰った記憶である。

タグ:セキヒツ
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2007年04月05日

忘れられた誕生祝

藤幼稚園はカトリックの幼稚園で、隣に立派な教会があり、園長と副園長は完全に修道女の服装をしていた。私服姿は一度も見たことがない。園長はいつもニコニコしていて優しそうだったが、副園長は幼稚園の先生とは思えないくらいいつも怖い顔をしていた。市電の件で怒られたのもその先生からだった。

一年目か二年目かはわからないが、毎回クラスに誕生日子供がいると、お祝いをすることになっていた。そして、その子にはおいしそうなお菓子がプレゼントされるのだ。ぼくはお友達の誕生祝いをしながら、自分の誕生日が来るのを心待ちにしていた。そして、いよいよその日が来たとき、誕生祝いが始まるのはまだかまだかと思っていたのだが、何もなく、その日は終わってしまった。

「先生、今日はぼくの誕生日だよ」と言えればいいのだが、言えないのである。がっかりして帰った。後日、先生が思い出してくれて、次の子と一緒にやってくれ、念願のお菓子をもらえたからよかったが、今始まるか今始まるかと思いながら、ずっと気をもんでいながら忘れられてしまった誕生会のことが忘れられない。

タグ:誕生祝
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2007年04月04日

電車で通った藤幼稚園

ぼくは亀田本町の家から宮前町にある藤幼稚園に通った。子供が歩いていける距離でないから市電で通ったのだ。4歳、5歳の2年間、市電で通った。今から思えば不思議な気がする。今、市電で幼稚園に通っている子供はどれくらいいるだろうか。

乗る場所と下りる場所を最初にしっかり教えられた。「ガス会社前」「宮前町」といった停車場を母親に覚えさせられので別に迷うことはなかった。たまに一つ先まで乗り越してしまうこともあったが、そこからでも幼稚園は近くて、「なーんだ近いんだ」と思ったことを覚えている。

確か1枚10円の回数券を持たされて、それを一回一回、乗るたびに車掌さんに渡していた。

この電車通園に関しては忘れられない思い出がある。
あれは幼稚園も2年目になって大分慣れてきたころだと思う。
同じ方向から通う友達の中に悪友ができて、悪巧みを実行したのである。

その友達は、市電で一つ先で降りたあたりに住んでいて、年上の兄弟がたくさんいた。それで悪知恵もあったのだと思う。
「電車を下りるとき、切符がないと言えばいいんだよ。それでも車掌さんは下ろしてくれる。でね、それを2回やれば切符が2枚貯まるから、それで遊びに行こうよ」と誘われたのである。ぼくの他にも5人ぐらい同じ誘いを受けた。

ぼくは言われるままにそれをやってみた。「切符ない」と勇気を振り起こして言った。心臓がドキドキした。車掌さんは不審な顔をしたが、しょうがないという感じで下ろしてくれた。そうやって2枚の自由に使える切符を手に入れて、その友達の家の近辺まで、一駅の区間だけ乗って遊びにいったのである。楽しく遊んで、帰りはまた市電に乗って、この企みは見事に成功したのである。今、考えると、幼稚園児でよくここまでできたなと思う。

ところが数日後、ぼくと母親は幼稚園に呼び出された。車掌さんのほうから幼稚園に連絡があり、この悪さは全部ばれてしまったのだ。名前まで全部ばれていたようで、やはり大人の方が上手だったことを思い知らされた。幼稚園児のうちからこんなことをするなんて、とんでもない子供だと、きつくお灸をすえられた。

母が言うには、幼稚園児が通園用の切符で、遊びに行くために電車に乗った時点で「おかしい」と思われたとのこと。それはそうだろうが、幼稚園児の知恵ではそこまでは思い至らなかったのだった。

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2007年04月03日

函館市亀田本町

僕は1960年、北海道の倶知安という町で生まれた。羊蹄山とニセコアンヌプリに挟まれたところにあるすばらしく自然に恵まれた小さな町である。

といってもおぼろげな記憶しかない。3歳で函館に転居したからだ。最初の転居場所がロクゴウというところらしいのだが、それがどこなのかいまだに判明していない。

母親に確かめることもなく現在に至っている。それで物心ついたころにいたのが、五稜郭駅に近い亀田本町の木造長屋のような家だった。6畳2間だったと思うが、隣の家と軒を連ねているのでなく、お尻でつながっている家だった。玄関が表通りに面しているのが、もう一方の家族で、裏側に玄関があるのが僕の家だった。

板塀のボロボロの借家だったが、そんなことは気にもならなかった。なにしろ僕にっては黄金時代だった。

今、その家を思い起こしてみると、本当に今とは何もかも変わっているし、何もない家だった。まずトイレだが、水洗なんてない。ポタンと穴に落とすだけのもので、トイレットペーパーもない。終わったら茶色いちり紙で拭くのである。

それから台所、昔は「流し」と言っていたものだが、そこに大きなカメがあって、水を貯めてあった。そこからひしゃくで水を汲むのである。水道はあったような気がしているが、なぜそんなものが必要だったのか。水道がない時代の名残のような気がするが、とにかく旧式の家であった。

1964年の東京オリンピックはその家の白黒テレビで見た記憶がわずかにある。そのテレビというのは長い四足がついていて、いかにも立派な風情をしているけれども、画面は小さくて、曲面で。今思うとひどい代物だなと思うけれども、当時の僕にしてみれば大変なもので、マンガもスパージェッターだったか、異国の島に冒険するようなものだとか、なんか、ものすごくミステリアスで心奪われるものだった。

あ、そうそう。函館市亀田本町と表題に書いたけれども、当時、亀田というのは函館市の中には入っていなかったのです。函館市の隣に亀田町という町としては異例に大きな町があって、それが後に函館市に合併されたのです。

そんなどうでもいいようなことを書いているうちに思い出しました。




タグ:亀田町
posted by カズタカ at 01:02| Comment(0) | TrackBack(0) | ぼくのこと | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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